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本のない書斎/中身のない研究

小説「砕け散るところを見せてあげる」の叙述トリックを詳しく解説します【ネタバレ】

 

作品紹介

死んだのは、二人。その死は、何を残すのか。大学受験を間近に控えた濱田清澄は、ある日、全校集会で一年生の女子生徒がいじめに遭っているのを目撃する。割って入る清澄。だが、彼を待っていたのは、助けたはずの後輩、蔵本玻璃からの「あああああああ!」という絶叫だった。その拒絶の意味は何か。“死んだ二人”とは、誰か。やがて玻璃の素顔とともに、清澄は事件の本質を知る……。小説の新たな煌めきを示す、記念碑的傑作。

 

文体はほぼライトノベルです。

話が重いので、若干ちぐはぐな印象も受けますが、ライトな文体だからこそ重い話でも読みやすくバランスがいいのかもしれません。

なんとなく見覚えがあるように感じたカバーのイラストは、浅野いにお氏のもの。

 

解説(ネタバレあり)

ひとことで言うと「実は別人だった」「実は同一人物だった」というタイプの叙述トリック。時系列も前後します。これだけ聞くと「イニシエーション・ラブ」と同じに聞こえますが、こちらの方が複雑。

「俺」「父さん」「母さん」などの「誰から見るかで変わる」言葉をうまく利用してすり替えています。

語り手は3人います。順番に並べると、

「清澄と玻璃の息子」→「清澄」→「玻璃」→「清澄と玻璃の息子」です。

「玻璃」と「俺」の会話(P5~6)

いちばんはじめのシーン。UFOが撃ち落されたせいで死んだのは2人、と玻璃が話す部分です。ここで玻璃の話を聞いている「俺」は「玻璃と清澄の息子」です。

つまり「俺」にとって玻璃は母親です。母親のことを名前で「玻璃」と呼んでいるのは一見不自然ですが、後でもう一度このシーンが出てきたとき(今度は「俺」ではなく「玻璃」の目線で書かれる)、玻璃が息子に「この話をする間だけ玻璃と呼んで」と頼んでいたことがわかります。これはもちろん玻璃が息子にかつての清澄の姿を重ね合わせているからです。高校3年生になった息子は、玻璃と出会ったころの清澄(当時高校3年生)にそっくりなのです。

このシーンだけでは「俺」が誰なのかはわかりませんが、「玻璃」という呼び方と気安い話し方から、「俺」は玻璃の恋人か友人、少なくとも年齢は近いだろうというミスリードが行われます。「俺」の話し方は母親に対するものとして不自然ではありませんが、母親を名前で呼ぶことは一般的ではないからです。

後でわかることですが、この時点で息子はすでに成人し、これから就職しようという年齢です。

「父さん」と「母さん」と「俺」の話(P7~20)

受験を控えた「俺」が、自室での変身ポーズを母親に見られて笑われるシーン。

語り手の「俺」は引き続き清澄の息子、「父さん」は「清澄」、「母さん」は「玻璃」です。

息子は高校3年生なので、さきほどの続きではなく、それより数年前ということになります。

さっきまでは「玻璃」でしたが、ここでは「母さん」に呼び方が変わっています。

素直に読むなら「母さん」が先ほどの「玻璃」だとは思いませんよね。

ヒーローだった父さんは「清澄」、つまりこの時点では清澄はすでに亡くなっています。

ここには自己啓発本や自己啓発本の影響をすぐに受ける人を揶揄するようにみせかけて、実は重要な伏線となっている部分があります。

今年度だけでも俺たちは、置かれた場所で咲いてみたり、嫌われる勇気を持ってみたり、魔法の片づけでときめいてみたり、瞑想、断食、もっと最新のわけわからないことまで、色々やらされた。

近年ヒットした自己啓発本のタイトル、すなわち「このシーンがここ数年の話であるということを強調する」言葉が並んでいます。

このあと、「あれ、これってけっこう昔の話じゃない?」というような疑いが出てきたときに、「この物語全体がちょっと昔の話」なのではなく、「さっきのシーンは現代の話だから、このシーンはそれより昔の話」であると明確になるのです。

「清澄」と「玻璃」の話(P21~300)

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ミスリード

で、ここからが本当に俺の話。

愚かにも、本当にヒーローになろうとした濱田清澄の話。それと、蔵本玻璃の話。

ここで初めて「清澄」という名前が出てきます。これを、

「さっきまでは別の誰かの話、ここからは清澄の話」ととらえるか、

「さっきまでの語り手は清澄という名前で、家族の説明をしたあと、いよいよここから本題に入るんだな」ととらえるか。

正しい認識は前者ですが、もちろん作者の意図は後者のように認識させること。

「愚かにも、本当にヒーローになろうとした濱田清澄」が、「ヒーローだった父さんに憧れ、自分もヒーローになりたいと思っている俺」とイコールであるとミスリードすることです。

ライトノベルの場合、一貫して主人公の目線で語られるものが多いですから、そのこともミスリードに一役買っているかもしれません。

 

年代の描写

まず、現代の高校生の日常だとすれば、スマホも携帯も一切出てこないのは不自然です。

清澄が友人(と思っていたクラスメイト)と待ち合わせをしたが誰も来ないというシーンでは、「連絡がとれなかった」とだけ書いてあります。スマホにかけたけどつながらないとか、既読にならないとか、スルーされたとか、具体的な描写はありません。

玻璃がトイレに閉じ込められた時も、助けを呼ばない玻璃に「携帯持ってないのか?」と聞くような会話はありません。玻璃にしてみれば助けを求められる相手もいないのですが、現代であれば、閉じ込められたのなら家族でも先生でもいいからとにかく携帯で誰かに助けを求めるということを真っ先に思いつくでしょう。

この時代(おそらく90年代前半と思われる)、携帯電話がないわけではないのですが、高校生が当然のように携帯電話を持っている、というほどにはまだ普及していないのでしょう。

 

今日は半ドンの土曜日。ほとんどの生徒はとっとと帰ったか、部活か委員で昼飯か。

 現在は週休二日制ですが、かつては、土曜日は午前中だけ授業がありました。

 

ノストラダムスが教えてくれた世界の終わりまで、まだまだ時間がある。

1999年に人類が滅亡するというノストラダムスの大予言。この時代が1999年より前であることを明確に示す一文です。

この他にも、「卒業式で好きな先輩の校章をもらう」とか、「あの曲が何枚売れた」という話題で盛り上がるなど、ちょっと昔であることを匂わせる描写が出てきます。高校生の話題というのは、今だと何でしょうね、面白い動画とか、流行ってるアプリとかでしょうか。わかりませんが。

「ヒマセン」というあだ名も90年代っぽい印象。なんでも略すあのセンス。

 

清澄のお父さん

清澄が玻璃を助けるのに、「父さんならきっとそうするだろう」とか、「父さんのように俺もヒーローになるんだ」とか、ヒーローだった父さんの話が少しは出てきてもよさそうなものですが、一切出てきません。「ヒーローだった父さん」は清澄本人だからです。その清澄のお父さんについてはあまり情報がありませんが、特にヒーローだったというわけではなさそうです。

お母さんはどうしちゃったの、とか訊くほど母さんも愚かじゃない。うちだってお父さんはどうかしちゃっているのだし。

この部分、ヒーローとして死んだ父さんを尊敬し、憧れているのであれば、「どうかしちゃっている」というのは少し違和感を覚える表現ですね。

 

さらに決定的なのは、入院した清澄にお母さんがかけた言葉です。

「お父さんも向かってるからね!」

この「お父さん」はもちろん「清澄のお父さん」です。清澄の息子である冒頭の「俺」にとってはおじいちゃんということになります。

俺が小さかった頃に、母さんは父さんと離婚した。父さんには新しい家族ができて、俺と母さんの中ではもう死んだような扱いになっていた。

「清澄のお父さん」にはここまでほとんど言及がありません。ミスリードされている読者は「清澄のお父さんはヒーローとして死んだ」と思っていますから、清澄の家に父親が不在で、清澄や清澄のお母さんから「お父さん」の話が出なくても不自然には感じないのです。

清澄のお父さんは生きている。これで、「ヒーローとして死んだ父さん」を持つ「俺」は「清澄」ではない、ということがはっきりします。

清澄は、ヒーローに憧れていたわけではなく、「こんな俺をヒーローだと信じている」玻璃のために、ヒーローになろうとしたのです。ヒーローの掟も、受け売りではなく清澄自身が考えたものです。

 

あの子は死んだ

あの子は死んだ。もう名前を読んじゃいけない。探しちゃいけない。

「あの子」とは、「玻璃」です。本当に死んだわけではなく、事件のあと、「蔵本玻璃」という存在は闇に葬られ、玻璃は名前を変えて新しい人生を生きている、ということです。

ただ、「死んだ」と言い切るのは表現がちょっと強すぎるような気がしますね。穿った見方をするなら、UFOが撃ち落とされたことによる死者にカウントできなくもないですから。

このあと清澄は玻璃のことを「俺の奥さん」と呼んでいます。もう「玻璃」と呼んではいけないけれど、新しい名前にもまだなじめない、といったところでしょうか。ここもわざわざ玻璃じゃないと思わせようとしているみたいでわかりにくいですが。

玻璃の呼び方はおそらく作中でもいちばん多く、「母さん」であり「蔵本玻璃」であり「A子さん」であり「あの子」であり「俺の奥さん」なのです。

ここからは誰の話? (P301~309)

ここまでが俺の話。濱田清澄と、蔵本玻璃の話。

ここからは誰の話?

「誰の話」かと聞かれたら、「真っ赤な嵐」の話、すなわち、「清澄と玻璃の子供」の話であり、冒頭の「俺」の話です。

ここからの語り手は「玻璃」です。今は別の名前で暮らしています。

「新しい命」は、玻璃と清澄の子供を指します。名前は書かれず、「真っ赤な嵐」と表現されていますが、この人物が冒頭の「俺」です。

玻璃は息子に過去の話を語ります。冒頭のシーンがもう一度、今度は「俺」ではなく「玻璃」の目線から描かれます。

お母さんは一生言うなと止めたけれど、

この「お母さん」は玻璃のお母さん(瑠璃)ではなく、清澄のお母さんです。正確に言うと、玻璃にとっては「お義母さん」ですね。

再び「俺」の部屋にて(P310~311)

ここで、受験を控えた清澄の息子の部屋、変身ポーズを母親に見られて笑われるシーンに戻ってきます。これがエピローグですね。「父さん」は「清澄」で、「母さん」は「玻璃」で、「俺」は「清澄と玻璃の息子」であることをわかった上で、もう一度読ませるという構成になっています。最後の一文については後述。

UFOが撃ち落とされたせいで死んだのは誰?

UFOはもちろんメタファーです。自分の頭上から影を落とす存在。

UFOが撃ち落とされたせいで死んだのは、「玻璃のお父さん」と「清澄」です。  

「確かに死者を全部数えたら、二人じゃない。まず一人目、この人差指は私のおばあちゃん。二人目の中指は、私のお母さん。三人目の親指は、私のお父さん。四人目の薬指は、あの人。でも人差指と中指は、お父さんに殺された。だからUFOを撃ち落としたことには関係がない。関係があるのは、まずこの親指。これは私が、一つ目のUFOを撃ち落として殺した」

「そして薬指。これはあなたのお父さん。濱田清澄」

「二つ目のUFOを撃ち落として、あの人は命を失った。だから二人なの。親指と、薬指。UFOが撃ち落とされたせいで死んだのはこの二人」

  

親指 :玻璃のお父さん

人差指:玻璃のおばあちゃん

中指 :玻璃のお母さん

薬指 :清澄

 

UFOはふたつあった。正確には、玻璃のUFOを撃ち落とした日、清澄に別のUFOが生まれた。

一つ目のUFOは玻璃の頭上にあった。これは、玻璃のお父さん。

玻璃は父親を殺して、ようやくその支配から逃れた。UFOを撃ち落としたことで、ひとりの死者が出た。1人目の死者は「玻璃のお父さん」。

二つ目のUFOは清澄の頭上にあった。これは、「ヒーローになれなかったこと」。「あの日玻璃を助けられなかったこと」。

ヒーローはもういない。ヒーローの存在を、もう俺たちは信じていない。

目の前で転落事故が起き、清澄は、玻璃に似た女の子を川底から助ける。意識の中では、あの日の玻璃にも手を伸ばしながら。「ヒーローになる」ことでUFOを撃ち落としたが、自分は命を落としてしまう。つまり、UFOを撃ち落としたことによる2人目の死者は、「清澄」。

二つ目のUFOを「玻璃に人殺しをさせてしまったこと」と解釈することもできそうですが、それだと、今更どうあがいてもUFOは撃ち落とせないので、「ヒーローになれなかったこと」であると読む方が筋が通ります。

最後の一文の意味

最後の一文、その意味を理解したとき、あなたは絶対、涙する。

帯の言葉です。この触れ込みだと、最後の一文で何かが分かるというか、真実があきらかになるような印象を持ってしまいますよね。

しかし「最後の一文」はこちら。

そしてみんな、愛には終わりがないことを信じている。

この作品の場合、最後の一文の持つ意味はトリックの種明かしでもどんでん返しでもありません。期待していた人は肩透かしをくらうでしょう。わたしは一瞬意味がわからず「え?」と固まってしまいました。

この一文にあえて意味を求めるなら、「この物語を、どうして叙述トリックの手法を用いて書く必要があったのか」ということの説明であると捉えることができます。

 

清澄の息子が、自室で変身ポーズを決めるシーン。

イメージの世界で、椅子に座った俺の足元から黒い影が伸びてゆく。

影の中に、最小単位の物質が生まれる。

 

ヒーローになって、UFOを撃ち落とした清澄のシーン。

流れだす俺にはもう物理的な制約などなくて、時をも超え、未来に息子の姿を見つけた。俺の息子は俺にそっくりだった。

真面目な顔して、一人椅子に座り込んで、自分の影をじっと見つめている。そして俺を呼んでいる。銀河から俺の命を呼びだそうとしている。

俺は息子の影の中に、最小単位の物質として生まれた。

 

このあとには、どちらもまったく同じ文章が続きます。

清澄も、清澄の子供も、まったく同じ時に、まったく同じものを感じているように。

濃淡に揺れる現象は、まるで鳥や魚の群れ。あるいは大空に湧き上がる積乱雲。あるいは風に揺らめく炎。あるいはオーロラ。水底の波紋。嵐の樹林のようでもある。

(実際にはまだもう少し続きます)

 

ここのシンクロを効果的に描くためには、この手法はとても効果的だったと思います。

こうして影として重なりながら、俺はいつだって君を抱きしめている。

 

最初は「こんなに複雑にしないで普通に書けばいいのに」と思いましたが、読み返すとじわじわ来ますね。

作者が狙っているのは、「騙された!」とか、そういうことじゃないんでしょうね、きっと。

タイトルの意味

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しかし、「砕け散るところを見せてあげる」というタイトルに謎が残りました。

(個人的には映画「リリィ・シュシュのすべて」で鉄塔から飛び降り自殺する蒼井優を思い出しました)

 

砕け散ったのは誰なのか。

とはいえ惹かれるタイトルではあります。この作品のタイトルがもし「永遠に続く愛の奇跡」とかだったら、どんなに推薦コメントがすごくても絶対手に取ってません。

一応わたしの解釈ですが、これは「UFOが砕け散るところを見せてあげる」という意味ではないかと。

指を一本、自分の頭上に高々と突き上げる。

俺にはわかった。

見てろ、と玻璃は言ったのだ。彼女の空のUFOに。

「見てろ、私は変わるからーー」

「UFOが砕け散るところを見せてあげる」なら、玻璃の言葉とも、清澄の言葉とも取れますね。

これが「自分が砕け散るところを見せてあげる」、という意味だとどうしても意地悪で自虐的で、玻璃の言葉としても清澄の言葉としても違和感が残ります。

わかりにくいのは叙述よりもメタファーのせい

この作品、全体的にメタファーがすぎるという点が気になりました。「わからない、ついていけない」というレビューも見られますが、正直、叙述というよりこのメタファーが曲者だと思います。

「UFO」についてはこれでもかというほど説明がありますが、我が子のことを「真っ赤な嵐」と呼んだり、玻璃が名前を変えて新しい人生を生きていることを「あの子は死んだ」と表現したり。

赤い空、真っ赤な雨、ヒーローのマスク、傘、天球、傷口、銀河。

ここまでメタファーだったり精神的なものを投影した世界観だったりが出てくると、ついていけなくなるというか、「実際に起こったこと」と「語り手が感じていること」の境目がわからなくなって混乱するのではないかと思います。

とはいえ、結局は楽しく読んだのですが。

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