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本のない書斎/中身のない研究

アフリカ文学の衝撃【やし酒飲み】感想

 

起承転結なんのその。因果関係なんのその。これを読めば、普段いかに私たちは常識に縛られているかわかります。読書を超えた、脳みそが溶けるような経験がこの一冊に。――サンキュータツオ

 

アフリカ文学の最高峰といわれる「やし酒飲み」。著者のエイモス・チュツオーラ氏はナイジェリアの出身です。

 

感想

 

 わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。

 父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで、夜となく昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた。

 父は、わたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのに気がついて、わたしのため専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。彼の仕事は、わたしのために毎日やし酒を造ってくれることであった。

 父は、わたしに、 九平方マイルのやし園をくれた。そしてそのやし園には五十六万本のやしの木がはえていた。このやし酒造りは、毎朝、百五十タルのやし酒を 採集してきてくれたが、わたしは、午後二時まえにそれをすっかり飲みほしてしまい、そこで、彼はまた出かけて夕方にさらに七十五タル造っておいてくれ、それをわたしは朝まで飲んでいたものだった。そのためわたしの友達は数え切れないほどにふくれあがり、朝から深夜おそくまでわたしと一緒に、やし酒を飲んでいたものでした。

 

どこから言及すべきか迷うほど、異様な魅力にあふれている。

「だった」「でした」が混在する語り口はずるいほどチャーミング。

 

この推定25歳の主人公、金持ちの父をもつ酒飲みニートなのだが、

父はそれを矯正するどころか「専属のやし酒造りの名人」を雇ってくれるのである。

 

父は、わたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのに気がついて、わたしのために専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。

 

この一文だけで、こちらの常識が全く通用しないことを思い知る。

お父さん、それでいいのですか、なんて思ってしまう自分の底の浅さ。

 

やし酒造りの名人は、ある日やしの木から落ちて死んでしまう。

 

わたしは、「この世で死んだ人は、みんなすぐに天国へは行かないで、この世のどこかに住んでいるものだ」という古老たちの言葉を思い出した。

 

やし酒を飲むことしか能のない男は、死んだやし酒造りの名人を探す旅に出る。

 

わたしはある町に着き、ある老人の所へ行った。この老人というのは実は人間ではなく神様で、わたしが行った時丁度妻と食事をしているところだった。

 

さらっと神様登場。ナチュラルに町に住んでいるものらしい。

 

神である彼の家に、人間が、わたしのように気軽に、入ってはならないのだが、わたし自身も神でありジュジュマンだったので、この点は問題がなかった。

 

11ページ目のこの衝撃。やし酒を飲むことしか能のない主人公は、なんと神だという。

 

わたしの名を名乗れと言うので、この世のことならなんでもできる"神々の〈父〉" だと答えてやった。

 

あまりにもさらっと書いてあるが、「やし酒を飲むことしか能のない男」と「この世のことならなんでもできる神々の父」では、話の前提が変わりすぎる。

 

この後も、こんな大事なことを、この主人公はときどき忘れてしまっては、「そういえば冷蔵庫にプリンがあったな」くらいの感覚で「そういえば自分はこの世のことならなんでもできる神々の父だった」と思い出すのである。ちょっと信じられない。

 

老人(神)はやし酒飲みに難題を吹っかけ、「なんでもできる神々の父」であることを証明しろと言う。そうすれば、やし酒造りの名人の居場所を教えてやる、と。

 

実は神であるやし酒飲みは、「ジュジュ」というものを使って魔法のような呪術のようなことができる。空を飛んだり、別のものに姿を変えたり。モノに命令して自在に操るような描写もある。まあ、神なのだからもう何でもありなのだろう。

 

やし酒飲みはもはやチートとも思える能力を駆使し、「死神の家から死神を連れてくる」という難題をやってのける。ところが連れてきた死神に恐怖した町の人は残らず逃げてしまったので、やし酒造りの居場所を知ることができない。やし酒飲みはまた別の町へと向かう・・・。

 

森の中には、さまざまな奇妙な生き物。

恐ろしかったり気持ち悪かったり可愛かったり、文章からは想像すら難しいものだったり。

 

彼らには「縄張りの掟」があるため、彼らのテリトリーを出れば襲ってくることはない。こういう部分はアフリカっぽい。

また、彼らと戦って倒すというよりも、「なんとかして逃げる」エピソードが多いのも興味深い。

 

危機が去ると、まるで他人事のようなまとめの一文が登場するのだが、これがなんとも拍子抜けしてほっこりする。

 

上のようないきさつで、わたしたちは、ともかく長身の白い生物たちから逃れることができたのだった。

 

わたしが原野と原野の生物から脱出した記録は、大体以上の通りです。

 

さて、「なんでもできる」なら旅になど出なくても良いのでは? という疑問が当然出てくるのだが、「この世のことなら」というのがポイントである。やし酒造りの名人はすでにこの世にはいないのだ。

 

やし酒を手に入れたいだけなら他にいくらでも方法はありそうなものだが、そういう詰めの甘さというかゆるさみたいなものは、この本においてはむしろ魅力的な隙となっていると思う。

 

たとえば、やし酒飲みは食べ物を買うお金を手に入れるために、カヌーに姿を変えて客を乗せ、お金を稼ぐのだが、「なんでもできる」というわりにはずいぶんと回りくどい方法に感じる。しかしそれが何とも味わい深い。

 

そこでわたしは、どうしたら、食べものなどを買う金が手に入るか、思案をめぐらした。しばらくしてわたしは、自分が、”この世のことならなんでもできる神々の〈父〉" であるということを、思い出した。

 

「荒唐無稽」と評されることもあるように、まるで子どもが空想で書きなぐったような展開。

一方で、「死」を売り渡す、など非常に興味深い部分もある。

 

わたしたちは、借主から「恐怖」をとり戻し、最後の金利を払ってもらった。そのあと、わたしたちから「死」を買い取った男を見つけたので、「死」を返してくれと交渉したが、その男は、それはわたしたちから買いとったものだし、代金もちゃんと払ったのだから、返すわけにはいかないと断ってきた。そこでわたしたちは、「恐怖」だけをもって、「死」の方は、買主の方に任せておいたのだった。

 

「恐怖」を貸して金利をもらっているという、想像を超えた展開。

「死」についてあっさりとあきらめてしまう、というのも我々には理解しがたい。

 

わたしたちはとっくに「死」を売ってしまっており、従って二度と死ぬ心配はなかったので、腹を据えて足をとめ、彼女に、こさせて好きなようにさせてやろうと、待ちかまえていた。しかし「恐怖」の方は売っていなかったので、彼女が怖くてたまらなかった。

 

この部分など、もはやすごいとしか言いようがない。

カルチャーショックというか、死生観がまるで違うのだ。

 

この本には、繊細な内面の描写も緻密なプロットもない。しかしそれどころではない、とんでもない魅力があふれている。

 

面白いことはもちろん、知らない世界や文化、価値観、考え方などに触れる、という意味においてもとても有意義な経験ができると思う。

 

我々が普段本を読むときというのは、無意識に「自分たちの文化の文脈」の中で読んでいるが、この本の中には、それとはまったく異なる枠組みが存在する。

 

土屋哲氏の訳も素晴らしい。

「何か面白い本ない?」と聞かれたらまずはこれをおすすめしています。

 

「わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった」――。やし酒を飲むことしか能のない男が、死んだ自分専属のやし酒造りの名人を呼び戻すため「死者の町」へと旅に出る。その途上で出会う、頭ガイ骨だけの紳士、指から生まれた赤ん坊、不帰(かえらじ)の天の町……。神話的想像力が豊かに息づく、アフリカ文学の最高峰。1952年刊。

 

どことなく雰囲気が似ていると感じたのが、筒井康隆の「旅のラゴス」。

 

北から南へ、そして南から北へ。突然高度な文明を失った代償として、人びとが超能力を獲得しだした「この世界」で、ひたすら旅を続ける男ラゴス。集団転移、壁抜けなどの体験を繰り返し、二度も奴隷の身に落とされながら、生涯をかけて旅をするラゴスの目的は何か? 異空間と異時間がクロスする不思議な物語世界に人間の一生と文明の消長をかっちりと構築した爽快な連作長編。  

 

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