Empty Study

本のない書斎/中身のない研究

「陰翳礼讃」 谷崎 潤一郎

 

再読。

世の中はさらに激しく変わった。

谷崎の嘆く扇風機でさえ、現代の我々にとっては懐古趣味で、むしろ風流ですらある。

 

一度目は、尊敬する人から勧められて読んだ。読んでみると、その人がこの本からかなりの影響を受けているということが手に取るようにわかった。

 

尊敬する人がどのような読書をしてきたか、当然知りたいという思いがある一方で、知るべきではないようにも思う。それは手品の種明しのように、その人の威光を弱らせてしまう。

 

あんなこと云っていたけれど、そのまま本の受け売りじゃないか―

 

こんな風に思いたくないのであれば、やはりその人が何を読んでいるか知るべきではないのだ。永遠にただ憧れていたいのであれば。

 

しかしそうでないのであれば、憧れのまま一方的に見つめるのではなく、同じ土俵に立ちたい、同じ景色を見たいと思うのであれば、同じ本を読むことは多いに役に立つ。その人の読書体験を知ることは、手の内を知ることと同じだ。

 

羊羹についての描写があるが、わたしは、これと似た感覚を、「石鹸」に対して持っている。まだ水に触れる前の、装飾のない、切りっぱなしの白い石鹸。白といっても不透明ではない。ほの白い、透けそうな乳白色の断面。

 

かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。

 

漱石や谷崎が羊羹を褒めるようにわたしも石鹸の断面のうつくしさを褒めてみたいのであるが、やはり彼らとわたしとの間にはとてつもない差があるようである。

 

 

図書カード:陰翳礼讃

 

アクセスカウンター