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本のない書斎/中身のない研究

「天衣無縫」 織田 作之助

 

どんな作品かは知らなかったが、女性目線の小説であるというのは少々意外だった。

 

わたしは小説の感想を書くのは苦手である。苦手であるし、また野暮であるとも思っている。この場所ではああだこうだとつまらぬ御託を並べているが、「小説の感想を書く」ということは本当に苦手なのだ。まともな感想など書けた試しがないし、へたな感想で何か大切なものが失われてしまうのは口惜しい。

 

文学は薬であると言う人がいた。文学に何も感じないということは、精神がいたって健康な証拠である。健康な人には文学など必要ない。

 

たしかにそうかもしれない。文学が「効く」とすれば、何かしら対象となる悩みなり症状なりがあるはずである。しかし本当に全く健康な精神を持つ者などはたしているのかどうか。人は文学を求める。文学がなくても平気な人は、きっと文学以外の薬が効く人なのだろう。

 

小説の感想というのは、ひとことで言い表せるものではない。何も感じなかったわけではない。ただ、感想と言っても、それは薄い雲のようなもので、はっきりとした形をしているわけではない。 自分でもよくわからぬものを、言葉にすることができない。

 

まだはっきりとしない靄のようなもの、しかしそれは自分の中に、澱となって蓄積していく。

 

消化しきれていないし、また、すぐに消化できるものでもない。

 

なぜこの作品は「天衣無縫」なのか。調べれば簡単に分かってしまうかもしれない。しかし調べて分かることというのは単なる知識であってそれは本当の意味で「分かる」とは言わない。

 

織田は「僕の読書法」で、自分の好む本は結論がたやすく引き出せるものではないから繰りかえし読む必要があるし、また繰りかえし読むことが楽しいのだと書いている。これには非常に共感する。もし結論がはっきりしているのであれば、そもそもそれを表現する方法が文学である必要はない。それは文学でしか表現しえないものであり、ひとことで済ますことができないからこそ文学のような表現があるのだ。

 

最近、文学とは何かということについてよく考える。

調べるのは興ざめだから自分で考えてみている。

 

わたしの考えでは、であるが、文学は形式を問わない。もちろん、絵だけの文学、というようなものはないが、小説の形をしているものもあれば、詩や随筆のようなものもある。

 

文学は救済である。

文学が書こうとするものは物語ではなくて人間である。

 

わたしは書くことに救われたことがある。

ある人が亡くなったとき、その日に書いた短い随筆が、どれほどわたしに安らぎをもたらしたか。

書くことで救済されるのであれば、あれも文学と呼べるのだろうか。それとも、そのような行為は単なる自慰にすぎないのだろうか。もしその随筆が誰かを救ったら、それは文学なのだろうか。いや、そもそも救済というのが文学の使命や目的なのだとすれば、結果を必然とする必要もないのではないか。

 

書くことが文学か。書いたものが文学か。読むことは文学か。文学とは、概念であるか、種類であるか、行為であるか。

 

とまあ、このようなことを考えている。結論はまだ出ない。

 

 

図書カード:天衣無縫

 

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