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本のない書斎/中身のない研究

「沈黙」 遠藤 周作

 

いつかいつかと思っていたのをようやく読んだ。遠藤周作は数年前に「海と毒薬」を読んで好きな作家だと思ったが、それから他の作品を読むことはなく、読書そのものからも遠ざかっていた。

 

冒頭、日本に派遣されていたフェレイラ教父が拷問により棄教したというショッキングな情報がもたらされる。神学的才能に恵まれ、最高の重職にあったフェレイラ教父の棄教は、その教え子でもあった3人のポルトガルの司祭を日本へ向かわせた。

 

全体が「まえがき」「書簡」「地の文」の3つに分かれている。「まえがき」で状況を説明したあと、司祭セバスチャン・ロドリゴの長い書簡によって物語が進行していく。ロドリゴが捉えられると、ロドリゴを主人公としつつも神の視点で物語が描かれる。遠藤周作は構造を重んじるのかもしれない。「海と毒薬」は、視点が登場人物の中を順番に回っていく小説だった。

 

神はなぜ沈黙しているのか。信徒たちが、これほどまでに苦しい目に遭わされているというのに、信仰のために死んでいるというのに、なぜ神は助けてくださらないのか。ロドリゴは禁断の問いに取り憑かれてしまう。もしも、もしも神がいないならば、自分のしていることは、殉教とは、なんと滑稽だろうか!

 

ロドリゴはフェレイラと再会する。フェレイラは、日本にはキリスト教は根付かないと言う。日本のキリシタンが信じている神は、我々の神とは違う。独自に歪められ解釈されたもので、それはもはや別のものなのだ。サビエルですらそのことに気が付かなかった。日本人は我々の神を理解し得ない。

 

 私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけがご存知です。なぜ転んだと聖職者たちは自分を訊問するだろう。穴吊りが怖ろしかったからか。そうです。あの穴吊りを受けている百姓たちの呻き声を聞くに耐えなかったからか。そうです。そしてフェレイラの誘惑したように、自分が転べば、あの可哀想な百姓たちが助かると考えたからか。そうです。でもひょっとすると、その愛の行為を口実にして自分の弱さを正当化したのかもしれませぬ。

 それらすべてを私は認めます。もう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあると言うのでしょう。だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。

 

ストーリーはいたってシンプルだが、訴えかけてくるものは非常に根源的で、深い。簡単に「深い」なんて言うのは浅はかだと分かっているが、切実なのである。ユダを思わせるキチジローの存在、司祭でありながらキチジローに愛を与えることのできない自分に、昔から疑問に思っていたキリストはユダのために祈ったかという問を重ねる。迫害を受けながら、イエスと同じ境遇であることに喜びを覚える。神への祈りは、感謝ではなく、次第に愚痴のようなものに変わっていく。あなたのためにたくさんの日本人が死んでいるというというのに、なお沈黙を続けるのか。なぜ何もしてくださらないのか。

 

(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さを苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)

「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

「しかしあなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」

「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」

 

 ロドリゴは踏絵を踏み、棄教する。しかしそのとき心には激しい悦びがあった。 

 

今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

 

 

 

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