Empty Study

本のない書斎/中身のない研究

「The Affair of Two Watches」 谷崎 潤一郎

 

青空文庫にはないので文庫を購入した。大正5年の谷崎の写真が載っていた。

 

その写真は、わたしには10代前半くらいに見えた。この頃から眼光鋭くすでに「谷崎潤一郎」の顔である。ところが大正5年というと谷崎は30歳前後のはずなのである。しかしどうも少年のように見える。

 

「The Affair of Two Watches」は初期の短編である。大学生の「私」は友人2人と集まっては、冗談を言い合い、金がないことを嘆く。ある日友人のひとりが思いついた「金策」に空想を逞しくする3人。しかしその計画のためには5円の元手が要る。言い出した友人と「私」は、時計を質に入れることになった。

 

時計を手放すと、「私」は少し不安になった。帰り道、いろいろなことを考え、いくつかの真理を発見した。

 

「強烈なる心霊の苦痛は、偶ま些細なる肉体の苦痛を以て滅却する事を得。」

 

この帰り道のシーンはとても良い。 わたしも経験があるが、それがたとえどこかで聞いた言葉の焼き直しであっても、自らの実感を伴いそれを再発見するとき、まさしく真理を発見したような気になるものである。

 

「私」はいつも昼近くまで寝ている。まず父が起こしに来る。続いて母。起こされて起きるのはきまりが悪いから、どちらもやり過ごしておいて、ほとぼりが冷めたころに起きるのだ。これが習慣になっており、「私」は父や母の襲来を心待ちにさえして、この叱咤が済まぬうちは物足りなくて起きる気がしないという。

 

「期待は其の対象の吉凶禍福に拘らず常に一種の快楽也。」

 

父や母の方でも、これが一種の習慣となっているのであろう、ときには嫌々ながらこなしていることもある。その剣幕ほどの感情は伴っていないのだ。「親子が心を協せて朝の日課の一つを執り行って居るような気持になる」という考察はとても面白い。

 

「私」と友人の2つの時計は、3円にしかならなかったらしい。あと2円あれば100円が手に入るところだが、案の定3人はその3円を遣ってしまう。牛鍋で飲みながら話に花が咲く。100円手に入らなかったのは事実だが2つの時計がなくなったのも事実と「私」が言うと、友人は「これは立派な小説になる」と言う。

 

「私」は山崎という名なのだが、どうやらこれは谷崎自身のことらしい。上で引用した2文は、とくに谷崎らしさを感じた部分である。

 

潤一郎ラビリンス〈3〉自画像 (中公文庫)

潤一郎ラビリンス〈3〉自画像 (中公文庫)

 

 

アクセスカウンター