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本のない書斎/中身のない研究

「不良少年とキリスト」 坂口 安吾

 

面白おかしく始まるのだが、檀一雄の「太宰が死にましたね」という部分でどきりとする。このエッセイでは、太宰の自殺について語られているのだ。

 

新聞記者は私の置手紙の日附が新聞記事よりも早いので、怪しんだのだ。太宰の自殺が狂言で、私が二人をかくまっていると思ったのである。

 

新聞記者のカンチガイが本当であったら、大いに、よかった。一年間ぐらい太宰を隠しておいて、ヒョイと生きかえらせたら、新聞記者や世の良識ある人々はカンカンと怒るか知れないが、たまにはそんなことが有っても、いゝではないか。

 

太宰はとっくに死んでいる。安吾だってそうだ。しかしこれを読むと、なぜだか「太宰が死んだ」ということが悲しかった。これまで惜しいとは思っても、悲しいと思ったことはなかった。

 

安吾は太宰の「魚服記」と「斜陽」を褒めていた。わたしは「魚服記」が好きなのでちょっと嬉しい気がした。

 

たとえば、太宰は私に向って、文学界の同人についなっちゃったが、あれ、どうしたら、いゝかね、と云うから、いゝじゃないか、そんなこと、ほッたらかしておくがいゝさ。アヽ、そうだ、そうだ、とよろこぶ。
 そのあとで、人に向って、坂口安吾にこうわざとショゲて見せたら、案の定、大先輩ぶって、ポンと胸をたゝかんばかりに、いゝじゃないか、ほッたらかしとけ、だってさ、などゝ面白おかしく言いかねない男なのである。
 多くの旧友は、太宰のこの式の手に、太宰をイヤがって離れたりしたが、むろんこの手で友人たちは傷つけられたに相違ないが、実際は、太宰自身が、わが手によって、内々さらに傷つき、赤面逆上した筈である。
 もとより、これらは、彼自身がその作中にも言っている通り、現に眼前の人へのサービスに、ふと、言ってしまうだけのことだ。

 

太宰治という人は、分かるようでいて分からない人だと思う。どんなにさらけ出しているようでもそこにはある種の演技というか、そういうものがあるのだ。安吾の書いている太宰はとてもほんとうらしく感じるので、きっとこれが太宰なのだろうと思う。そういうことにする。

 

人間は生きることが、全部である。

 

いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。

 

教祖の文学・不良少年とキリスト (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

教祖の文学・不良少年とキリスト (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

 

図書カード:不良少年とキリスト

 

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