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本のない書斎/中身のない研究

「彼は昔の彼ならず」 太宰 治

 

こっちへ来給え。このひがしの方面の眺望は、また一段とよいのだ。

 

実際に景色を見ながら案内するような文体が面白い。

 

主人公の男は大家である。親の財産で不自由なく暮らしているが、今度家を貸した人物がどうも一筋縄ではいかない。端的に言うと、家賃を払わないのである。

 

彼はまともに働いてもいないようだし、奥さんもしょっちゅう変わるのだが、主人公の男は彼を天才だと思い勝手に期待する。

 

僕はどうも芸術家というものに心をひかれる欠点を持っているようだ。ことにもその男が、世の中から正当に言われていない場合には、いっそう胸がときめくのである。青扇がほんとうにいま芽が出かかっているものとすれば、屋賃などのことで彼の心持ちをにごらすのは、いけないことだ。これは、いますこしそっとして置いたほうがよい。彼の出世をたのしもう。僕は、そのときふと口をついて出た He is not what he was. という言葉をたいへんよろこばしく感じたのである。僕が中学校にはいっていたとき、この文句を英文法の教科書のなかに見つけて心をさわがせ、そしてこの文句はまた、僕が中学五年間を通じて受けた教育のうちでいまだに忘れられぬ唯一の智識なのであるが、訪れるたびごとに何か驚異と感慨をあらたにしてくれる青扇と、この文法の作例として記されていた一句とを思い合せ、僕は青扇に対してある異状な期待を持ちはじめたのである。

 

この期待は裏切られるが、その実彼と自分が同じであることに気が付く。

 

太宰治『晩年』を読む(文芸漫談コレクション) (集英社ebookオリジナル)

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図書カード:彼は昔の彼ならず

 

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