Empty Study

本のない書斎/中身のない研究

「日本文化私観」 坂口 安吾

 

「堕落論」に次いで代表作にあげられる安吾のエッセイ。

 

米粒写経の居島一平さんが、「高校時代に公園で坂口安吾の日本文化私観を読んでひとりでさめざめと泣いた」という話をしていた。わたしが言うのもおこがましいが、良いエッセイだった。

 

わたしは「美しいデザインのものが使いやすいとは限らないが、理にかなって使いやすいデザインは必ず美しい」と考えてきた。つまりはそういうことなのだ。

 

小菅刑務所とドライアイスの工場。この二つの関聯に就て、僕はふと思うことがあったけれども、そのどちらにも、僕の郷愁をゆりうごかす逞しい美感があるという以外には、強いて考えてみたことがなかった。法隆寺だの平等院の美しさとは全然違う。しかも、法隆寺だの平等院は、古代とか歴史というものを念頭に入れ、一応、何か納得しなければならぬような美しさである。直接心に突当り、はらわたに食込んでくるものではない。どこかしら物足りなさを補わなければ、納得することが出来ないのである。小菅刑務所とドライアイスの工場は、もっと直接突当り、補う何物もなく、僕の心をすぐ郷愁へ導いて行く力があった。なぜだろう、ということを、僕は考えずにいたのである。

 

小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。

この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。

 

すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。

 

そしてまた、こんなつまらぬブログであっても、ものを書くということについて自省を強いられるようであった。

 

問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。

 

引用しているとキリがない。これはそのうちまた読み返したいと思った。

 

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

 

 

安吾が言及しているブルーノ・タウト。

日本文化私観 (講談社学術文庫)

日本文化私観 (講談社学術文庫)

 

 

図書カード:日本文化私観

 

アクセスカウンター