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本のない書斎/中身のない研究

「安吾巷談 03 野坂中尉と中西伍長」 坂口 安吾

 

一人の部隊長があって、作戦を立て、号令をかけていた。ところが、この部隊長は、小隊長、中尉ぐらいのところで、これが日本共産党というものであった。その上にコミンフォルムという大部隊長がいて、中尉の作戦を批判して叱りつけたから、中尉は驚いて、ちょっと弁解しかけてみたが、三日もたつと全面的に降参して、大部隊長にあやまってしまったのである。
 これは新日本イソップ物語というようなものの一節には適している。この教訓としては小隊長の上には大隊長がいるし、その又上に何隊長がいるか分らん。

 

結局、日本共産党というものは、コミンフォルムの批判をうけると、ただちに自己批判して、降参せざるを得ないのである。独自の見解を主張すれば、彼らが中西伍長を除名したように、今度は自分がコミンフォルムから除名されるだけのことだ。あげくの果は、武力侵略の好餌となるだけだ。

 

感想を書くことが難しいのだが、けっこうセンセーショナルなことを主張していると思う。そしてあながち間違っているわけでもない。とりあえずわたしも、「自分のたのしい生活」を、心掛けるようにしよう。

 

かりに、世界中を征服してみたまえ。征服しただけ損したことが分ってくる。結局全部の面倒を見るか、手をひく以外に仕方がなかろう。その時になって光を放つのが、無抵抗、無関心ということだ。

 

我々は無関心、無抵抗に、与えられた現実の中で、自分自身の生活を常に最もたのしむことだけ心がけていればいゝのである。
 結局、人生というものは、それだけではないか。社会人としては、相互に生活水準を高める目的のために義務を果し、又、自分自身の生活をたのしむことだ。
 セッカチな理想主義が、何より害毒を流すのである。国家百年の大計などゝいうものを仮定してムリなことをやるのがマチガイのもとだ。人のやる分まで、セッカチにやろうというのが、もっての外で、自分のことを一年ずつやればタクサンだ。
 銘々がその職域で、少しでも人の役に立つことをしてあげたいと心がけていれば、マルクス・レーニン主義の実践などより、どれくらい立派だか知れやしない。人の能は仕方がないから、心がけても、人になんにもしてあげられなくても、かまわんのさ。
 そしてその次に、自分だけのたのしい生活を、人の邪魔にならないように、最も効果的にたのしむことを生れてきたための日課だと心得ることだ。
 負けて、手足をもぎとられて、仕方がないから、無抵抗主義を唱えるワケではありません。

 

坂口安吾評論全集〈6〉巷談随想篇 (1971年)

坂口安吾評論全集〈6〉巷談随想篇 (1971年)

 

 

図書カード:安吾巷談

 

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