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本のない書斎の書評ブログ

計算された喜劇【倒錯のロンド】ネタバレ感想

折原 一 ■日本ミステリー

 

遊び心のある、ちょっとひねったプロット。文章は平易で読みやすい。少し物足りないくらいだが、プロットが凝っているので文章はこのぐらいあっさりしている方がいいのかもしれない。

登場人物があまり魅力的でないのだが、これは「魅力的に書けていない」のではなくあえてそうしているのだろうと思う。(これについてはネタバレを含むため後述)作者の他の作品を知らないのでなんとも言ないが、少なくともこの作品に関しては「登場人物はプロットのための駒」にすぎないということなのだろう。売れない小説家志望はボロアパートに住み、ベストセラー作家は高級マンションに住んで女にモテる、といったように、人物はわかりやすくステレオタイプ。小説を読むというより、脚本を読むと思えばいいかもしれない。星新一のショートショートを長編として書いたらこんな感じかな、なんて思った。

どこか舞踏病を思わせるタイトルはまさにぴったり。狂ったように踊る「倒錯のロンド」、作者の手の上で踊らされるのもまた一興。

 

感想

“原作者”と“盗作者”ではなく、“原作者”と“盗作者”と“盗作者”、ですね。女が「白鳥翔」というペンネーム案を口にしたあと「やめといたほうがいいと思うよ」というシーンは「白鳥翔という作家が別にいる」ことを示唆するには十分すぎるし、山本が盗作をしていることもかなりわかりやすく示されているので(本屋でアイデアを思いつくシーンなど)気付くことはそれほど難しくないと思われる。

ミステリにおける「地の文では嘘をついてはいけない」ルールを破れる方法として、「作中作」がある。地の文のように見せかけて、実は誰かの「作品」や「日記」であるというものだ。「実は作中作でした」はよくある叙述トリックではあるが、この作品は「作中作」が入れ子のようになり、最後には本物の作者(折原一)が登場して「その全部が作中作」という構造になっているのでちょっと複雑。山本の手記であることは最初から明記されているのだが、それも作中作の中の原稿の一部となっている。しかし「実は狂人でした」という、「まさか主人公が狂っているとは思わない」ということをつく手法は、トリックとして評価するならば一種の禁じ手のような気がするのだがどうだろう。もちろんそのような手法がよろしくないなどとは言わない。私の嗜好が叙述トリックの技巧を求めているだけであり、作品としての面白さはまた別である。(これとは少し違いますが、「実は狂人でした」という作品ならば夢野久作の「キチガイ地獄」なんか面白いですよ。これは叙述トリックではないと思いますが。夢野久作の作品には、手紙、新聞記事、文献などの作中作が多くみられます。) 

作品自体は万人向け。少ない登場人物のほとんどは殺されたり狂ったりと散々なのですが、悲壮感はありません。殺され方、狂い方もなんというか、ドロドロしてなくて、ポップです。勘違いも、アンジャッシュのすれ違いコントみたいな感じ。なんでしょうね、殺人が起きているのに、全然シリアスじゃないというか、すべてがコントみたい。「殴って気絶させる」系のシーンがやたら多いのも、「コントみたい」と感じる要因か?

「登場人物を魅力的に書かない」のがここで活きている。登場人物に共感したり好感を持ったりすると、その人が殺されるというのは悲劇的になり、ポップじゃない。すべては喜劇のための計算なのだろうか? だとしたらさすがである。

「主人公の頭がおかしい」「作中作の中に作中作」「現実の作者が登場」など、禁じ手ギリギリのあらゆる手法をふんだんに盛り込んだ、サービス精神あふれる一冊。

折原一氏は叙述トリックの作品を多く執筆しているそうなので、他の作品も読んでみようと思う。「倒錯のロンド」はおそらく変化球だろうから。

精魂こめて執筆し、受賞まちがいなしと自負した推理小説新人賞応募作が盗まれた。―その“原作者”と“盗作者”の、緊迫の駆け引き。巧妙極まりない仕掛けとリフレインする謎が解き明かされたときの衝撃の真相。鬼才島田荘司氏が「驚嘆すべき傑作」と賞替する、本格推理の新鋭による力作長編推理。

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